透明な嵐の中で

日々の雑多と、思考整理のために、その時の私の言葉でひたすら書きなぐるブログです。

「スキ!」を追いかけようと決めた②

(前回の続きです)

 関西地方へ戻った私は、まず受験どころのメンタルでは無かった。

まず、引越しが決まったのは高校3年の秋。

否が応でも受験には間に合わないため、1年浪人することは決定していた。

 

見慣れた懐かしい駅前で以前の知り合いと出くわすのではと毎日びく付きながら生活をし、関東地方へ帰るにはどうしたらいいかしか考えていなかった。

だが、初夏になって、なんとかメンタルを立て直し、受験をして大学へ行こうと考え出せるようになった。

 そのきっかけになったのは、同じく浪人していた高校の頃からの友達の存在がとても大きかったと思う。

そして、頑張る友達と叱咤激励し合う中で、多摩美術大学を諦めた私にまた湧き上がってきたのは

「私が将来やりたい仕事、勉強したいことってなんだ?」

という自問だった。

 

うーん、やりたい仕事はまだ分からないけれど、とりあえず、大学には行きたい。

なぜなら大卒の方が給料が上だし、会社からの待遇も良いだろうから。

どうせ学ぶなら好きなことがいいな。 そうだ、絵の道に進もう。

 

きちんとしたデータに基づいて分析した結果に導き出した答えや、自問自答し続けた訳ではなく、去年の私はまた「なんかそう思うから」で受験を決めてしまった。

 

そして、強い意思もなく、漠然とした「大学に入れば何か救われるだろう」という気持ちで過ごしていた私がモチベーションを保てる訳もなく、あれほど好きだと言っていた絵も、本当に美大でいいのかと不安になり始めて、描くことが苦痛になってゆき、美術予備校を辞めてしまった。

そこから一般大学を受験しようとして入った塾でも、参考書や問題を見る度に勝手に涙が出るようになり、行き帰りも泣きながら通っていたので、見かねた両親の助言により、そこも辞めてしまった。

 

そして、頑張ることに疲れてしまい、受験を目の前に燃え尽きてしまった私は、確実に入れる圏内だった今の大学に、一教科だけで受けられる試験で得意科目の現代文を選び、難なく入学した。

試験内容は、拍子抜けするほど簡単で、なんだか自分が今までやってきたことが馬鹿みたいに思えた。

 

そして、そこからずっと違和感を感じていた。

 

これは勝手な自論だが、現代文の試験に出される文は、その大学の特色と価値観を良く表していると思う。

 

今の大学の現代文の問題を解いた時、心の中にモヤモヤとした不快感が広がったのを覚えている。

題材にされた文章があまりにも稚拙で、狭い価値観だと感じたからだ。

当時の私は自暴自棄になっていたので、稚拙な文章を出されようが、大学に入りさえすればそれで良かった。

だが、その考えが最も幼く、狭かったのである。

 

オープンキャンパスにも行かずに藁にもすがる思いで決めた大学だったため、全く大学の雰囲気を掴んでいたかったために、通い出してからは苦痛で苦痛で仕方なかった。

いつもなら眺めるだけで心が満たされる桜でさえも、その大学の校門に咲いているというだけで不愉快な気分になり、あまりの美しさになんだかこちらを嘲笑っているように見えた。(もちろん私の被害妄想である)

 

そこから、私が「大学を辞めたい」と思うまで時間はかからなかった。

 

そして、私は1度諦めた「スキ!」である芸術ともう一度最初から、真摯に向き合って現実を見据える事にした。

 

今、私は自問自答を重ねて、現役や浪人時代に行った説明会の数を遥かに上回る回数で美大の情報収集に当たっている。

今度は「なんとなく良さそうだから行く」「辛い現実からの逃避の材料」ではなく、本気で自分自身と、その幸せと向き合うためにも。

 

 

「スキ!」を追いかけようと決めた①

今年の春、晴れて私は女子大生となった。

女子大生、華々しいキャンパスライフ、たくさんの友達、楽しいサークル、素敵な恋人…

そんな生活を夢見ていたけれど、

入学して少し経過してから「何か違う」と思い始めた。

そもそも、高校3年生から去年の私は「自分にとっての良い大学」を取るか「世間にとっての良い大学」を取るか決断できずにいた。

私は小さな頃から絵を描くことが大好きで(と言ってもここ最近はマンガ寄りのものしか描いていないけれど)

3歳の頃も、朝起きたらまず紙とペンを引っつかみ、一心不乱に描いてはご飯を食べて、その後もまた描いて…の繰り返し。

親が言うには、時たま映画やアニメを観ながら過ごしていたらしい。

今思えば最高に有意義で贅沢な生活だったと思う。

そんな私も、紆余曲折、時が流れて早18年。

夢見がちで空想好きな少女は、酸いも甘いも噛み分ける大人へと変貌してゆく頃。

高校3年の夏の日、担任の先生が配り、前の席の子が回してくれた「進路志望調査」の紙を前に私のシャープペンシルは止まっていた。

たった紙切れ1枚だが、私にはこの紙切れがどうしようもなく、心に重くのしかかってくる鉛の塊にしか思えなかったのだ。

進路。

専門学校に行くのであれば「専門的に学びたい事がある程度決まっていて、将来それを仕事にしたい」という気持ち。

大学に行くのであれば「将来的な仕事についてはゆっくり考えてゆき、ある程度掘り下げて勉強したい分野もある」という気持ち。

当時の私は「どちらか一方を選ぼう」という風に捉えていた。

だが、そこで大きな問題に直面する。

「私が将来やりたい仕事、勉強したいことって、なんだ?」

 

最初のうちは気楽に「昔から絵が好きだし、興味があるから美大に行こう」と決めていた。

関東に住んでいた私は、所謂五美大と呼ばれるうちの一つ、多摩美術大学の受験に向けて予備校でひたすら勉強をしていた。

けれど、そんな日々は長く続かなかった。

関西へ戻ることが決まったからだ。

 

元々、生まれは関東であり、幼年期の育ちも関東を転々とし、親が転勤族で何度も引越しを繰り返しては新しい土地に赴いた。

そんな中でも、関西は1番長く住んだ土地だった。

だが、方言の違いや、私の幼少期の性格が原因で人間関係で失敗した。

幼さとは時に残酷で、自分たちとは言葉が違う異質な存在である私はなかなか受け入れてもらえず、おまけに私はかなりの自信家であったのでクラスのリーダー格に目をつけられ、4年間もの間ひたすらいじめや、嫌がらせを受けていた。

今は「お互いに幼かったし、土地のせいじゃなく、環境が悪かったんだ」と思えるが、当時の私は視野が狭かったので関西がほとほと嫌になってしまった。

 

そんな渦中の中、必死に父親を説得し、無理を言ってまで母親と出てきた関東地方。

私にとっては救いの手を差し伸べられたような場所であり、絶対に離れてやるものか、と意気込んでいた。

そんな中で母から告げられた

「関西へ戻る」

の一言は、当時の私にとって無期懲役、死刑宣告のようなものだった。